10月11日の「平和講座」第7回は、高阪一夫さん(市内入山瀬在住)が「昭和初期に生まれて~軍国主義下の少年時代」と題して、戦中から戦争末期、戦と題し講演。戦中戦後の厳しい時代に、生まれ育った大阪で体験した少年時代の軍隊調の学校生活、過酷な勤労動員、度重なる激しい空襲の惨状など、詳細な記憶を元に、その体験を語りました。高阪さんは、昭和4年大阪生まれ。大阪市立酉島工業学校機械科を卒業。戦後の混乱期には、父と共に機械取り付け運搬業を営み、技術者としてさまざまな企業を経て、昭和37年に製紙会社に転職し、富士市へ来られました。
高阪さんはまず、当時の学校について「学校は軍隊調の教育で兵学校なみ。昭和17年に工業学校に入学したが、周辺は軍事産業の中心で、勤労奉仕や軍隊教練が強化され、野球もさせてもらえない4年間が私たちの時代だった」と振り返り、「学校では砲身などを作り、昼夜交替でドラム缶も作った。20年頃には原材料も入らなくなり、空襲が激しくなる中、当時敵の飛行機の区別ができなかったので、敵機の模型も作った。空襲でけがをする者もでたが、けがも自分で治す。『けがも弁当も自分持ち』、死んでも死に損というのが当時の実態だ」と語りました。
また、敵機のグラマンの機銃掃射に遭ったが逃げることができたこと、焼夷弾で黒こげになった人を遠くの病院まで運んだこと、けが人であふれた病院に置いてくるしかできなかったこと、空襲で死んだと気付かずに幼子を背負って這っている母親の姿が忘れることができないこと、傷ついて倒れている人を助ける人もいない残酷な状況、哀れだが自分もどうすることもできなかったことなどを語り「人間が野性に帰ったかのようだった。空襲の犠牲者を人間として扱っていなかった。材木か何かのように扱った。人間性がない。戦争はいかに残酷かということです」と語気を強めました。
また戦後、焼け野原となった中に掘っ立て小屋を建てたものの、9月に枕崎台風が襲い、その被害に遭ったことに触れ「焼け野原に水害。どうにもならん状態だった。小屋も流されたのでまた建て直した」と戦後の混乱期の苦しい始まりについても言及しました。
このほか、日本が歩んできた幕末以降、現代までの戦争の歴史などを振り返り、自身の歴史観も披露。特に財閥の変遷などについて語り「戦争の影に隠れて財閥は発展した」などと述べました。
最後に、「戦争では人間性を失う、ということを特にわかっていてほしい」と語りました。