10月4日の「平和講座」第6回は、満蒙開拓青少年義勇軍の体験者橋口傑さんが「祖国はありや 土着せしめて生活を営む」の演題で、自身の旧満州での体験、敗戦後の開拓民との過酷な逃避行の実態、さらには終戦時、日本軍が残留した日本人を現地に土着させて生活させようとした意図についても解説。「地獄の苦しみの中で残留させられた開拓民は日本政府に『棄民』された」と語り、当時の凄惨な状況をありのままに伝えました。
橋口さんはまず、「開拓とは本来、荒地を開墾することだが、満州の開拓団のはじめは、すでに中国人が耕していた土地を取り上げて自分たちの土地にし、翌年から収穫を得ていた。関東軍は、入植した場合中国人からの抵抗があると見込み、弥栄などの開拓団は完全武装していた。つまり、いくら殺してもいいということだった」と語り、開拓団の女性たちの射撃訓練写真などを示し、「土地を取り上げられた人たちは抗日運動をはじめ、開拓団に犠牲者が出るようになり、安全を保つためには武装して戦わなければならなくなった」と述べました。
一方で、橋口さんがいた勃利(ボツリ)では広大な荒地をトラクターで開墾しており、1年目は収穫が無く、3年後には大量の大豆を収穫したことなど、現地での暮らしの様子なども紹介しました。しかし、土地を奪取する日本人は中国人にとって攻撃の対象であり、ソ連参戦後、ソ連軍の素早い進撃が始まると、中国人の暴動が起り、開拓団は避難を余儀なくされました。橋口さんもソ連空軍の機銃掃射を受けるなど、そこから開拓団と共に過酷な逃避行が始まりました。橋口さんは「前日まで勃利にいた関東軍は一斉にいなくなっていた。本来軍隊は国民を守るはずだが、日本の軍隊は、住民を守らずにいなくなった」と語り、更に「大本営は敗戦直後『日本人を現地に土着せしめる』という方針を打ち出しており、その理由は『もし再度中国に侵攻した場合は、この日本人たちが協力してくれるだろう』という思惑があった。これは満州にいた日本人たちを棄民することだ。130万人の日本人を現地に捨てるという政策だ」と語気を強めました。
後半では、橋口さんが終戦後半年の現地に留まり、開拓団のその後を調査して回り、開拓団の跡地に開拓民の多数の白骨体が残され、残留させられた孤児たちや女性らが中国人の妻になって日本語を忘れて暮らす状況などを目の当たりにしたこと、更には八路軍に拘束され8年間軍の医療関係の仕事をしたことなど、数奇な体験を語りました。
最後に質問を受けて、「戦争は、何回行っても足がすくみ、これほど怖いものはない。戦争は絶対にやってはいけないと思っている」と述べました。