9月6日の「平和講座」第2回は、戦争展実行委員の土屋芳久さんが「戦争を支えた銃後社会」と題して講演。日本が外国、アジアへ出て行って軍国主義の道を歩んでいた時、背後でその戦争を支えた゛銃後の社会゛はどんな状況だったのかについて、土屋さんは富士市の当時の町や村の役場資料を調査、そこから見えてきた「銃後社会」の姿が゛銃後も戦場゛であったその実態について解説しました。
土屋さんはまず、アジア・太平洋戦争の末期の状況を説明し、戦争末期の兵士を巡る状況について「吉永村、須津村の召集令状発行状況」の資料から「戦争の拡大で兵士が不足し、病人にも召集令状が出された。朝鮮人、台湾人にも徴兵検査をしている」とし、更に兵士の増強が行われていたと解説。
そして、国家総動員法による戦時体制の強化で、働き手が兵士に取られ人手不足となった地域では、農業や工場で人の奪い合いも起きるなど、生産低下と生活悪化が激しくなったとし、それに伴って役場組織の変化や「隣り組」の活動が強化されたことにも言及。「吉原町役場処務規定綴」等の資料を示し「それまでの産業課は戦時対策課に、兵事係は軍事厚生課になるなど、戦時のための仕事が一気に増え、強化された」と述べました。また、隣り組の役割については「一層締めつけが厳しくなり、上位下達の徹底と同時に、互いに監視しあう社会が強化され、゛銃後も戦場゛とされていった」と説明しました。
このほか、「勤労動員」や食糧不足のための「食糧量産体制」、「配給制度の強化」についても説明し、「拡大する戦費を支えるため、貯蓄増強、国債購入を次々と国民に指示した」として、当時の「吉原町町議会に対する1944年の業務報告」から、国民の暮らしが破壊されていく状況を示しました。
後半では、「富士町役場日誌」からB29の空襲について「昭和19年12月には富士にも昼に9回、夜に18回の空襲があり、被害もあった」と示しました。
最後に、「戦争では、町も村も人びとの暮らしも破壊され、軍隊もそうだが、国民の命は消耗品のように軽く扱われた」と述べ、「こうした犠牲を払って生まれたのが憲法。9条だけでなく、戦争をさせないための条項がちりばめられている。戦時中はものが自由に言えなかったため、言論の自由、表現の自由など基本的人権が示されている。個人が『勝手にものが言える』のがこの憲法だ」と強調し、「銃後社会がどんなものだったか、その実態を具体的な資料から更に良く知っておく必要があるのではないか」と語りかけました。